「少年は拳を握る」
突発的鉄拳論


 昔、ぼく達はみんなタイガーマスクだった。ありあわせのシーツや風呂敷をマントにして、ドロップキックや四の字固めを掛け合って遊んでいた。そして、ぼく達はキックの鬼、沢村忠だった。登校中の友達に向かって後から走っていって真空飛び膝蹴りをかますのが朝の挨拶だった。階段から仮面ライダーになって飛び降りた。あしたのジョーになって、クロスカウンターを一生懸命練習したし、何故かは忘れたけれど、回し蹴りが流行ったこともあった。スペシウム光線をはじめとする光線攻撃はすぐに馬鹿馬鹿しくなったのに、同じくらい馬鹿馬鹿しいはずのライダーキックは魅力だった。空中回転を練習したのも、ライダーごっこの為だった。あしたのジョーを読んでは、「明日のために、その一」とか言ってジャブやストレートをジョーと一緒に練習した。中学生になっても、リングにかけろに影響されてパワーリストを授業中でも手放さなかったり(パワーリストに関しては、当時の人気ドラマー、コージー・パウエルの影響もあったな)、アポロ・エクササイザーの購入を本気になって考えていた奴もいた。高校では、クラブの連中みんなで、剣道の篭手を使ってボクシング大会をやったり、サンドバッグを部費で買おうという計画をたてたりしていた。別に、ぼく達が、特別粗暴だったわけではない。クラブは美術部だったし。でも、みんな、本当に一生懸命やっていたし、楽しくてしょうがなかった。もちろん、それはスポーツではなかったけれど、暴力でもなかった。仮面ライダーごっこの延長だ。相手を潰すのが楽しいのではなく、パンチを出し、受け、蹴りをかわす、そういう一連の動きが、とてつもなく楽しかった。喧嘩がとりたてて好きなわけではないけど、自分が持っているはずの力や技術の可能性が確かめられるような気がしていた。この感じは、わかる人にはわかると思う。強さを誇示するのではなく、ただ、ひたすら、相手にダメージを与える、そのことだけを考えて動く。自分のダメージを減らす為にも動く。こぶしの痛みを感じ、相手に与えたダメージを感じ、肉体の痛みを感じる。その経験から、拳を鍛える必要を感じて、バカみたいに窓の鉄の桟を殴ったり、打たれ強くなるために、人に殴ってもらったり、本当に何の役にも立たないような事だけれど、その気になっていた。それは、タイガーマスクや仮面ライダーになろうとしていた子供の頃と、情けないくらいにおんなじだ。手持ち無沙汰で、ついシャドウ・ボクシングをやってみたり、棒があれば振り廻してみたり、今だってそんなことばっかりしている。男の子には、結構そういうのが多い。タイソンのパンチやアリのテクニックを真剣に分析したり、猪木の延髄斬りや前田の後廻し蹴りの相手に与えるダメージを考えたり、別に特別興味がなくても、それを見てしまうと思わず考えてしまう男は存外多いと思う。多分、みんな、昔はジョーやタイガーマスクだったんだと思う。それがどんなに大事な事だったかは忘れてしまったかもしれないけれど、どこかで、わけもなく燃えてしまう心を残しているんだと思う。

 阪本順治監督の二作目「鉄拳」は男の子の夢をそのまま形にしてしまった映画だ。前作「どついたるねん」も本当に男の子の映画で、その梶原一騎を彷彿とさせるストーリーテリングには随分喜んじゃったものだけれど、その「どついたるねん」が「あしたのジョー」だとすれば、今回の「鉄拳」は「リングにかけろ」だ。少年の夢がより純粋な形で提出されていると言い換えてもいいか。
 それは「夢」の話だから、当然、自然主義的リアリズムや心理的な葛藤、人生の何らかに関わる主張なんかは、この映画には無い。だからそれをさして荒唐無稽とかファンタジーとかいうとらえ方をする人がいるのは当たりまえだと思う。早い話が「仮面ライダー」のような映画だから、それをバカバカしいと思う人はいるだろうし、それはそれで構わない。ただ、それだけでこの映画を切って捨ててしまうのなら、その人はちょっとかわいそうだとは思う。拳を思わず握り締めてしまったことなんか、そういう人にはなかったんだろう、人を殴った後の拳の痛みを知らないんだろうと思うだけだ。仮面ライダーのような映画であるのは、間違いない。本当にそういう映画だ。だけど、それとつまらないということにどういう関係があるんだろう。仮面ライダーのような映画だから面白いわけでもなければ、つまらないわけでもないはずじゃないか。ただ、仮面ライダーのような映画である、というだけの事だ。    
 話がそれた。別に人が何と言うかは、とりあえず関係ない。重要なのは、「鉄拳」が元気を与えてくれる、嬉しくしてくれる、大事な事を思い出させてくれる映画であるという事だ。そして、僕にとっては、そういう映画こそ娯楽映画と呼べるものである。
 繰り返す。「鉄拳」は少年の夢の映画だ。そして、夢であるから、現実感とかは無い。ただし、夢にもルールというか約束事はある。映画にリアリティを持たせる為の数々のテクニックがあるように、夢にも、それを正しく夢として描く為のテクニックや定石がある。荒唐無稽と言われる映画のほとんどがつまらないのは、この約束事を知らないか、知っていて無視しているか、下手にしか使ってないからだ。そして、映画に限らず、この約束事はエンターテイメント全般に共通してあるものだから、一流のエンターテイメントと二流のエンターテイメントの差は、この約束事の使い方にかかっていると言ってもいいと思う。
 例えば、一人で決闘に向かう男がいる。そして、相棒が駆け付ける、といったシーンがある。よくある設定だけれど、まず、これがあるかないかでは盛り上がりが大きく違う。それは、完全に「お約束」という奴である。さほどの才能がなくても、やる人はやる事が出来る。だから、そこまでは定石、問題はその生かし方だ。相棒が救けにやって来る、その現われ方をどうするかで、ワンパターンにも感動にもなる。「鉄拳」の最後の戦いで、一人戦う菅原文太のもとに、どうやって大和武士が駆け付けるか。これは、実際に見てもらいたいのでここでは書かない。正しい約束事の使い方を最上の形で見ることが出来ると思う。少なくとも、子供の頃仮面ライダーやあしたのジョー、タイガーマスクなんかに感動したことのある男の子なら、絶対嬉しくて涙が出ると思う。他にもこの映画には随所にそういう約束事の正しい、優れた使い方があって、それが全て、「そうこなくっちゃ!」と思うと同時に、どこかで見る側の予想を越えて目の前に現われるため、その都度、背筋がぞくぞくして、目が潤んでしまう。見て確認してほしい。
 
 「鉄拳」は、『戦う』男の子の夢の映画だ。菅原文太演じる中本誠次という男は、「道楽じゃない!」と叫びながら道楽としか見えないボクシングジムを続けている。大和武士演じる少年院出の後藤明夫は、ボクシングをやる事で正しい暴力衝動の使い道を見付けた。シーザー武志率いる悪者軍団は、不具者は汚い、というイデオロギーのもと、身につけた格闘技の技をフルに使う。みんな、戦いたいんだ。だから、殺された原田芳雄演じる紙漉きの男が漉いた和紙を拳に巻き付けて戦いに向かった菅原文太は、敵のパンチを受けているときでも笑っているし、大和武士は、ボクシング界への復帰戦を蹴って、菅原文太のもとへ、リングより過激な戦いの方へ向かって走っていく。無抵抗の不具者を殺し続けるシーザー武志一派も、不具者殺しに対しては「恐いんだよ。抵抗するなよ!」とヒステリックに叫ぶのに、菅原文太とは嬉々として戦っている。それがどうして楽しいのかは分からない、分かっているのは、それが楽しいということだけだ。恐いし、痛いし、疲れるし、でも楽しいし、面白い。男の子は多分みんな、心のどこかでそれを知っているから、それを見せられると思わず拳を握ってしまうのだと思う。大和武士をはじめとする、本職の格闘技者が使われているのは、だから、本物の迫力を出す為ではない。そこで行なわれる戦いが、殺陣や潰しあいではなく、格闘技でなければならないからだ。『戦い』には技術が伴わなければ、男の子の夢にはならないから。仮面ライダーのライダーキック、ジョーのクロスカウンター、沢村忠の真空飛び膝蹴り、みんな一撃必殺の格闘技術だったからこそ、ぼく達は熱狂した。だからこそ、それらの技を真似る一方、それらの破り方を本気で考えた。紙一重のシノギ合いにこそ、『戦う』男の子の夢がある。
 この映画のヒロインを演じる桐島かれんもまた、男の子の夢の中の女の子として登場する。だから、とてつもなく可愛い。「飛び降りたら死ぬんだから。わたしは天使じゃないんだからね。」と言う桐島かれんは、夢の中の夢見る男の子達にとって、まぎれもなく天使である。男の子はそういうものだから、女の子の桐島かれんは、男たちに聞こえないように、一人でつぶやくし、そうやってつぶやくことがまた、男の子にとって夢の女の子であるということである。本当に男の子ってのはしょうがないものだし…。だからこそ、そういう天使を女の子に求めてしまう。バカだけど、そういう気持ちはどこかに残るんだろうな。この映画の桐島かれんは、僕にとっても天使だった。天使は、でも天使でしかないことも知っているから、大和武士のかわりにリングに立った彼女は涙を流すのだと思う。
 シーザー武志率いる悪者軍団は、思いっ切りステロタイプの格好をしている。男の子が倒すべき悪は、いつも匿名の多数だからだ。ヒーローものドラマの悪役が常に紳士的なスタイルと物腰をしているというのは常識だ。ジョーが倒さねばならなかったホセ・メンドーサがなぜ『家庭人』だったかを考えれば分かると思う。ここでも、少年の夢が形になっている。 
 リングもまた、少年の夢である。それは、プロレスでもボクシングでもシューティングの八角形のリングでも、それが闘う場所として存在している以上、リングは少年の憧れであり夢が実現する場所だ。これはもう本当にそうで、友達何人かでリングが自由に使えるというなら、たいがいの男は盛り上がる。すぐにボクシングごっこやプロレスごっこが始まる。ボールとバットがあれば二人でも野球が始まるように。だから、全身を負傷し、潰れた拳を鉄の義指で甦らせた大和武士と、ジムに全てを賭ける菅原文太が再起を図るためのリングは、美しい緑の山の中に、白く輝いて浮かんでいる。そこは、そういう場所だからこそ、そういう形でなければならない。そこで行なわれる数々の特訓やスパーリングが延々と描かれるのは、いつまで見ていても飽きることがない。熱血少年マンガにつきものの特訓場面が何故こんなに、心をときめかせるのかはよく分からないけれど、巨人の星からドラゴンボールに至るまで、熱血少年マンガでは必ず見せ場のひとつとして特訓シーンが描かれているのは、意味のない事ではないと思う。
 他にも、格闘シーンに於いての、それぞれの対決が、異種格闘技戦の定石にのっとって行なわれていることについての魅力や、大和武士の砕かれた拳に代わる、文字どおり「鉄拳」の両刃の剣としての扱われ方など、いくらでも、そこに少年の夢を見付ける事ができる。けれど、この映画そのものが少年の夢なんだからそんなことは当たり前だ。細かく書いてたら本当にキリが無い。

 ぼく達は昔、みんなタイガーマスクだった。だからこそ思いっ切りのパンチを人にぶつける事もできたし、拳を握り締めたまま、じっと我慢することもできた。殴ることの勇気も、殴らないことの勇気も、ジョーやライダーが教えてくれた。殴られた痛みも、殴った痛みも、肌で感じることができた。いつでも、拳を握り締めていた。でも、いつか、そんなことは、忘れられていたようだ。そんなことをしつこく覚えていた僕は、「ガキ」とか「ヨオチ」とか言われたこともあった。でも、やっぱり忘れちゃいけなかったんだ、と大和武士の笑顔を見て思った。