芸者ガールズとジパングボーイ
「少年」ってなに?


 ダウンタウンは少年のイメージ、と坂本龍一は考えたらしい。この発想は別に目新しいものじゃない。かつて、「ガキの使いやあらへんで」の特番で、尾崎亜美に番組のテーマソングを作ってもらう、という企画があった。その時作られたのが、後にマクドナルドのCMにも使われた「Walking in the rain」なのだが、ここでは、放課後のロッカー、教室、靴箱といったイメージをダウンタウンと重ねて、ちょっとソウル系のサウンドが提出されている。坂本龍一が指定した少年は、17才。高校二年生だ。尾崎亜美と坂本龍一の二人は、ほぼ同じ年代を想定して、それを「少年」というくくりでイメージしたわけだ。
 そして、出来上がった「少年」及び「ビー玉」という曲と、「Walking in the rain」を聴き比べると、実にまあ、何とも、似たようなイメージで「少年」という言葉というか概念が捉えられていることが分かる。ポイントはどちらも郷愁に満ちているということ、そして「少年」というものへの憧れである。それはそれで別にいいような気もするが、ちょっと考えてみよう。尾崎亜美は女性で、坂本龍一は男性である。そして「少年」とは言うまでもなく、男の子供である。尾崎亜美の曲が、少年への郷愁と憧憬を「学校」というシチュエーションの元で描くのは、そしてそれを自分で歌うことも含めて、そこにあるのは女性の少年へのまなざしであり、女性が考えるイメージとしての「少年」である。だから「Walking in the rain」は、湿っている(雨降ってるもんね)。そして、それはそれで正解。問題は坂本龍一だ。彼は、かつて、もしくは今も少年であることも可能だったはずだ。
 基本的に男は、「幼児」「少年」「大人」という風に成長して行くにあたって、そのどこかで、どれかになり損なってしまうことがある。そして、「大人」になり損ねた時点で、「おっさん」になる。だから「おっさん」には二つのタイプがある。つまり「幼児」のおっさんと、「少年」のおっさんである。実際、「大人」になるのは相当難しいから、普通男は、この二つのどちらかの「おっさん」になる。見分け方は簡単。思想を持ってるのが幼児で、方法を持ってるのが少年。または、「少年ぽいわね。」と女の子に言われて喜んでしまうのが「幼児」で、「幼稚」と言われてよくわかんないのが「少年」。だって、幼児は少年だったことが無いから、少年という概念に憧れちゃうから。そして少年は大人じゃないから、幼稚なのは当たり前だから。
 ダウンタウンに少年への憧憬が、少年への郷愁があるだろうか。「炎のおっさんアワー」というタイトルは、もちろん森岡のおっさんの「おっさん」をモチーフにしたことは間違いないが、それとは別に、自分たちを指して、おっさん、と呼ぶ姿勢が感じられる。それは、番組でのトークでも分かる。もちろんそれは彼らが「少年」のおっさんだから。そして、うっかりそれに憧れてしまう坂本龍一は「幼児」のおっさん。それは、村上龍と話が合ったり、お笑いの芸人に妙に接触したがるところを見ても明らかだ。
 このアルバム「THE GEISHA GIRLS SHOW 炎のおっさんアワー」に見られる、坂本龍一とダウンタウンの間にある、徹底したコミュニケーションの不在の原因は、実はここにあるのである。
 ここで、もう一枚、「少年」を扱ったアルバムを引っぱり出してくる。あがた森魚の「日本少年」である。奇しくもプロデュースは細野晴臣。ここにビートニクスのセカンドアルバムにして「青年」を扱った日本では異常に珍しいモチーフのアルバム「A Beatnix a Go Go」の高橋ユキヒロを並べちゃうと、これはこれで、YMOというのは奥が深いのだけれど、それは別の話。
 で、「日本少年」である。日本の少年の夢が、少年が勝手に作り上げたはずの文化である、少年倶楽部に代表される少年小説やマンガに、ただひたすら憧れて、今も憧れ続けている少年の夢が、二枚組で見事に描き出されてしまった、メチャメチャな作品。少年は少年でしかない、という事まで描かれてしまったのは、「少年」のおっさんが二人で手を組んで作ったから。そんなものが、もちろん売れるはずもない、というのは、少年であることは剥きだしにされると、少年以外には何の興味もないものになってしまう、というだけのことだ。バタビア、上海、香港、チベット、ビクトリアル、七つの海を越えて旅に出る。お母さんから水筒ハンカチ持っていけと言われて、「うん」と答えて、そのへんをウロウロするだけなんだけど、でも、いつかは行くからいいんだ、という、そんな作品にリアリティを感じる人がそんなにたくさんいるんだったら、僕はもう船乗りになって、船の上で結婚式上げて、ヤッホーっと叫んでるに違いない。そんな話をまともに聞いてくれるのは、やっぱり「ガキ」だけだ。だから、芸者ガールズは売れてしまった。
 「少年」という言葉が悪いのかも知れない。つまりは「ガキ」だ。「男の子同士が仲良くしてると、何故か腹が立つ」と言ったのは「桃尻娘」の榊原玲奈だが、それに対して「どうして?」と無邪気に聞いてしまうのが少年の磯村薫である。ガキって、いつも「どうして?」って言ってしまうから、女の子に「ガキ!」って言われてしまう。でも、それが「少年」なんだよって、「少年性」を誤解したまま温室に閉じこめようとする女の子に言うのは、よけいなお世話だろうなあ。
 そもそも「少年」という概念はアメリカのものかも知れない。「少年の心を持ち続けている大人」なんて言葉が出てくるのってアメリカ映画くらいだもんなあ。そんなものは「おねぇのマッチョ」と同じだと言ったのは橋本治だけど、少年という概念が、大人とは相いれない以上、そんなものが論理矛盾なのは当たり前。単なる「幼児」のおっさんの「少年」への憧れに過ぎない。そして、何よりの錯誤は「少年」なら良くて「幼児」ではいけないということだ。そんなのどっちもいびつなだけじゃん。男の子がまともに大人になれないって点では同じ事。それに「ガキ」よりは「幼児」の方が謙虚な分社会性だって高いのにね。多分「少年」は「幼児」になれるけど、「幼児」はおっさんになると「少年」になれない、と思ってしまうということなんだろうけどね。女の子が安易に「少年」っていいねって言うのも問題かー。そんなの「男っていいね、って言うとSexからむから言ってるだけじゃないんかい、ってつい思っちゃうよね。男から性的なものを抜いたら少年ってさ。実はそれはそれである種の正解なんだけど、少年の心なんてのはこの世には存在しないんだよなー。「ガキ」なんて、机に突っ伏して、鼻水たらして夢みてるだけだよ。
 そして、芸者ガールズ唯一の名作は、少年が少年と組んでしまった上に、風景を描写することだけで世界を成立させられるのがラップというか、日本の話芸だという原点にうっかり戻ってしまった「森おっさんチョイチョイきりきりまい」だけだ、という部分にも、「ガキ」テイ・トウワと「幼児」坂本龍一の資質の違いが見られて、泣けてくる。「幼児」は天才になれるけど、「少年」は天才に憧れちゃう、というのも真理だったりするのだ。