夜は迷路


「皆さん、今夜はお忙しい所をお集まり頂きまして、有難うございます。」この家の主人、細川玄一郎が挨拶をはじめた。北新宿の駅から程近い所にある古い大きな医院の老院長である彼は、怪談や綺譚が大好きで駆け出しの小説家の私にも、しきりと怪談を書くように勧めていた。その彼から速達が届いたのは三月三日の午ごろであった。

  拝啓。春雨霏霏、このゆうべに一会なかるべけんやと  存じ候。万障を排して、来る三月五日午後六時頃より  御参会くだされ度、他にも五、六名の同席者あるべく  と存じ候。まずは右御案内まで、早々、不一。
    三月三日朝                
                   細川醫院主人
  追記 例の集まりです。文面より推察されたし。

 なかなか古風な文章なのだが読むなり笑ってしまった。岡本綺堂の青蛙堂鬼談にある案内状の文面そのままなのである。文面より推察されたしとあるからには、青蛙堂鬼談のように、数人が集まって怪談会のようなものを行うのであろう。この時代に百物語まがいの集まりを大真面目にやろうという趣向が嬉しいし、何かいいネタがあれば私も岡本綺堂のような怪談集が書けるかもしれない。カセットレコーダーにテープを山のように抱えて、私は細川醫院に向かった。それにしても、日付まで綺堂の小説通りになっているのは凝り過ぎだし、青蛙堂主人に対して細川醫院主人は強引だ。そこが細川さんのいいところだけれど。
 私には滅多にお目にかかれないような、よく吟味された食事の後別室に通され、そこで徹夜の怪談会が始まった。「親父はトリを勤めたいと言いますし、でもホストはうちだしで、とりあえず僕から口を切らせて貰います。あとにひかえるお歴々の露払いというところですか。」老院長の次男で、世田谷のほうに日本ではまだ珍しい精神分析医の看板をあげている賢二さんが話し始めた。「僕は仕事柄、いろんな人の不思議な体験談を聞くのですが、被害妄想や脅迫観念からの幻や妄想がほとんどで、皆さんにお話ししても、聞いたことがある話しだと思われるようなものばかりです。でも中には妄想とはちょっと考えにくい不思議な話もありますから、それをお話ししたいと思います。」 賢二さんは、それが自分の身に起こったことのように話し始めた。
「このほうが、迫力が出ると思うんですよね。」 

  
 その日、僕は久しぶりに令子と飲み歩いていた。付き合い始めてもう四年になるが、最近はお互い忙しくてなかなかゆっくり会う機会が無くもっぱら電話で話す程度だったため、僕も彼女もやけにはしゃいでいた。渋谷で待ち合わせて食事、軽く飲んで新宿へ。しばらく足を運ぶことのなかった歌舞伎町の雑踏が浮かれ心地の肌に妙にしっくり合うのが分かる。並んで歩く令子がシルバーグレイのスプリングコートをゆらしながら些細な冗談にも本当に楽しそうに笑う。何だか凄く可愛く見えるのは、髪を下ろしたからだけじゃないだろう。
「ネ、ここ入ろッ」
令子が僕を引っ張るようにして雑居ビルの中の五十年代風カクテルバーに入って行く。「これで今日五軒目だ。」チラと思いながら、でもそうやって元気に遊ぶ令子を見ているのが、とにかく嬉しかった。
「亀の呪い、しってる?」僕が言う。
「しってるよー。亀の歩みはのろい。でしょ?」
「じゃ、続亀の呪いは?」
「知らない。」
「亀の呪いの話をしていると…」
「ぞくっとした。じゃないでしょうね?」
「うーん、じゃ続続亀の呪いはどうだ。亀の呪いの話をしていると亀がぞくぞく出てきた。」言ったとたんに令子はカウンターに突っ伏した。
「どうだ、これは読めなかっただろう。」カウンターでロングカクテルを飲みながら思いっきり馬鹿な話をする。これだけ長く付き合ってて、まだこんな話しで盛り上がれる所が令子との仲のいいところだ。他の女じゃこうはいかない。威張れることじゃないかも知れないけど。もっとちゃんとしたことだって喋ってるし。
 その店はかなり居心地がよくて、  
「そろそろ、出ようか。」と僕が言ったときには、もう一時を過ぎていた。かなり飲んだにしては、足元も確かで気持ち良い酔い加減だった。
「ちゃんと歩ける?」令子に聞くと、
「大丈夫!」と元気な返事が返ってきた。見たところちょっと陽気になっている感じだけれど、変に酔っぱらってはいないようだ。
「どうしようか?」僕が言うと
「ちょっと、歩こう。」令子は腕をからませながら明るく笑う。そういえば、令子と腕組んで歩くなんて初めてだ。歌舞伎町からホテル街を抜けて大久保の方に歩きながら、「久しぶりにホテル行こうか?」と言ってみた。アパートは東中野で、このまま歩けば着いてしまうんだけれど、せっかくのデートだ。
「それもいいけど。お金もったいなくない?」本当にムードにのまれにくい女だ、こいつは。
「このまま帰るのもなんじゃないか?」
「そうねえ、あなた元気?」何を言いだすんだか。
「元気だよ。」
「遠回りして散歩しながら帰りましょ。月は出てないけどサ。」細いクセに元気な女だ。ま、それもいいな。
「じゃ、こっちの道から行ってみよ。」大久保通りに出るには、やたらと脇道があるからこういうときは便利だ。新宿のホテル街では結構見かけたカップルもこの辺りではほとんどいないし、脇道で車も通らないので、僕達は腕を組んで道の真ん中を歩いていった。春とはいへ、まだ夜は肌寒い。その中を令子と寄り添って歩くのは多少の酔いと相まって、たまらない快さだ。
「こうやってるの気持ちいいね。夏だとこういうわけにはいかないけどさ。」令子がぴったりと身体をくっつけて囁く。向こうに見える大久保通りに時々車が走っていくのが光の点になって令子の瞳に反射している。その光が眩しく見えるほど暗い闇が僕達を包んでいた。

3
「キャッ。」令子が僕の腕にしがみついた。
「どした?」
「なんか踏んずけたみたい。気持ち悪かったー。」
「相変わらず大袈裟に驚くね。こっちがびっくりする。」「だってえー。」何か柔らかい物を踏んだらしくしきりに靴底を気にしている。
「別に何もひっついて無いみたいだけど、暗くてよくわかんない。紙コップかなんかかなあ。」
ゾッとした。ついさっき、同じようなものを踏んで気持ち悪い思いをしていたからだ。変に足の裏に残る感じの、グニャリとした生き物のような感触だった。令子を怖がらせない為に黙っていたけれど。それにしても、あたりの様子がおかしい。ついさっきまで見えていた大久保通りの灯りが見えなくなっているし、道の左右にあるはずの人家や店は、あまりにひっそりとしていて、そこに何か物があるという気配しか分からない。遠くの方で、人の話し声がするような、車が走る音のような、耳鳴りにも似た音が聞こえる。大久保通りに出ればすぐ僕のアパートだし、令子は何の不安も抱かずに僕についてきているけれど、僕は初めて来た土地を歩いている気分だった。いつになったら通りに出るのだろう。令子もそう思ったらしい。
「こんな遠かったっけ。疲れちゃった。」
「ちょっと回り道したからな。」そうだ、こんなに時間がかかるはずはない。回り道なんかしてない。この道を真っすぐ行って大久保通りに出たら左折、そしてしばらく行って右に曲がればアパートだ。最初に入った脇道が、少し明治通りのほうに、つまり僕のアパートとは反対のほうに曲がっていたのかも知れない。それなら、角を見付けて左折すればいい。少し落ち着いた。何を怖がってるんだろう、子供じゃあるまいし。今日はちょっとはしゃぎすぎて疲れているんだろう。仕事を始めてからめっきり体力が落ちてるし。そういえば新宿から歩いて帰るのも久しぶりだからな。それで遠い感じがするんだ。
 しばらく喋りながら歩いていると、四つ角があった。さっきは、こんなに歩いても大久保通りに出ないのはおかしい、と思ったけれど、実際はそれほど時間が経っていないのかもしれないと思った。疲れが一気にきたのと酔っているので歩いた距離と時間が一致しないようだ。随分歩いたようでもあるし、まだほんの少ししか歩いていないようでもある。歌舞伎町から大久保通りまでは普通に歩いて二十分位の距離だ。もし、まだあまり歩いていないのならば、ここは当然真っすぐ行くべきだろう。しかし、この道が真っすぐに大久保通りに続いているとはどうしても思えなかった。それに、ただ真っすぐ歩くのが不安でたまらなかった。
「あれ、曲がるんだっけ?」
「こっちが近道なんだよ。」左に曲がれば近道だと自分にも言い聞かせていた。それに、その四つ角の中で左に曲がる道の先には、ぼんやりと街の灯が見えていたのだ。

       
 とにかく、早く大きな道に出たかった。狭い路地の、小さな灯りすらない、足元が不確かで、たくさんの虫の死骸や、内蔵を剥き出しにした猫を踏みながら歩いているようなこんな所にいつまでも居たくはなかった。しかも周りの闇から感じるまとわりつくような圧迫感は、子供の頃、夜中にふと目を覚ました時にいつも感じた孤独と不安を思い出させた。向こうに見える小さな灯りに一刻も早く辿り着きたかった。令子も同じようなことを考えているようで、お互い何も喋ろうとはせずに、やや早足になって歩いていった。令子の身体は震えているようだ。夜道というのが怖いものであるというような、昔々に忘れ去っていた子供の時の記憶が、その頃に感じた恐怖を伴って蘇ってくる。周りの状態はほとんど見ることが出来ない闇の中では、耳がやけに研ぎ澄まされる。ちょっとした風の音や、自分の足音、令子の息遣い、それらの音が神経に触る。気配に対しても敏感になってきているのがわかる。周囲の壁に何か生き物が動いている、目の前を猫が走り抜ける、後に誰かがいてじっと僕達を見ている、羽虫が顔をかすめるように飛んでいく。そんな事は錯覚でしかないと思う。それは、空気がほんの少し動くだけで、過敏に反応しているだけだ。そう思おうとすればするほど、確かに誰かに見られているような感覚は強くなっていく。ここから抜け出したい。もうすぐだ。灯りは随分近づいてきている。道の途中には、幾つかの曲がり角があったけれど、そんなものをいちいち見ている余裕はとうの昔に失くしていた。遠くに見えているほんの少しの灯りだけが頼りだった。一瞬、頭の中に、誘蛾燈の灯りに誘われて死ぬ蛾のイメージが浮かんだ。嫌な気がした。それでも灯りの誘惑には抗えなかった。


「ここ行き止まりじゃない!」令子が言う。
「ああ、間違ったみたいだな。」
「近道って言ったじゃないの。こんな気持ち悪い道、さんざん引っ張り回しといて間違ったってそんな。さっき、亀の呪いの話しなんかするからだよ。」亀の呪いなんかに何の関係があると言うんだ。僕だってもう倒れそうだ。
「とにかく、引き返さなきゃしょうがないよ。」
 引き返して最初の角を左折する。令子はもう話しかけても返事さえしない。それでも怖いのか僕の腕にはつかまったままだ。何も考えないようにして歩いた。考えると頭の中一杯に恐ろしいイメージが溢れて、押し潰されそうになる。ただ歩くことに集中する。道が変に曲がりくねっているようだけど考えないことにする。歩く。立ち止まるともう歩けなくなると思った。また、行き止まりだった。引き返す。四つ角を見付ける。右折する。もう、方向は完全に見失っていた。角をみつける度に、別れている道の一つに必ずある灯りが見える道を選んだ。それはもう考えて動いているのではなかった。暗いのが嫌だった。
 首筋が気持ち悪い。虫が這い回っているようだ。手をやってみるが何もいない。シャツのなかでカサカサと音がする。首を這っていた虫は背中に行ったようだ。皮膚の感触がおかしい。何か小さな蛆虫のようなものが、毛穴からゾロゾロ這い出して身体中を蠢き回る。
「フ、フ、フ、フ、フフフ」遠くで子供が笑っているようだ。背筋に長い回虫のような奴が繊毛を震わせているとしか思えない寒気が走る。気がつくと笑っているのは令子だった。恐怖でおかしくなったのかと思った。
「令子、おい、大丈夫か?」令子を抱き締める。暗闇の中に令子の顔が微かに浮かび上がる。
 令子の顔をしたそいつは、楽しそうに、僕をからかうように笑っていた。令子じゃなかった。僕は腕を振りほどこうとしたが、そいつは凄い力でしがみついていた。令子だったものの腕は生臭い鱗のような膚を持っていた。僕は走りだそうとしたのだけれど、沢山の小さな蜘蛛が靴の中に入り込んできて、その場に倒れた。地面からは黒い甲虫やゴキブリのような虫が僕の身体に這い上ってきた。身体中で蠢いていた蛆虫は毛虫にその姿を変えていた。肉の腐ったような臭いがした。頭の上でかつて令子だった何かが高い笑い声を出していた。顔の上を無数の毛虫とゴキブリが埋め尽くし、僕は嘔吐した。その上になめくじのようなものが這い出してくるのを見ながら意識を失った。


「で、その人はどうなったんですか?」
ジャズピアニストのYさんが聞いた。
「この後、気がついたらアパートのベッドに寝ていたんですよ。目が覚めて彼女の顔を見たとき又、気絶しそうになったんですけどね。」
「これ賢二さんの体験でしょう?」私はちょっとニヤニヤしながら言った。前に老院長から賢二さんの暗所恐怖症を聞いて知っていたのだ。
「ハハ、ばれましたか。この時のことがあってから、どうも夜道が苦手でね。今でもあれがなんだったのか解らないんですよ。精神分析もアテにはなりませんね。」
「全部、夢だったということはないんですか?」
「令子の話では、何度目かの曲がり角の時何かブツブツ言ってたかと思うといきなりブッ倒れたらしいんですよ。だから途中からは妄想だったんでしょうけどね。でも、今でも時々思い浮かぶんですよ、その時の恐ろしさが。」
「令子さんっていう人は…」
「ええ、いまの女房です。だからよくからかわれますよ。臆病者とか言って。でも、あれ以来令子も暗所恐怖症なんですよ。僕はこの話、令子には聞かせた事がないんですけどね。」