青木富夫「小説突貫小僧一代記・子役になってはみたけれど」
都市出版 1800円

自伝でありつつ、あくまでも「小説 突貫小僧一代記」。虚実皮膜の中に、一人の映画人のリアルな心情が浮かび上がる。

 この本は、小津安二郎監督の映画「突貫小僧」でお馴染みの、戦前の名子役にして、その後も、ずっと映画に芝居に関わってきた役者青木富夫の自伝的小説だ。彼の魅力的な表情とおかしみのある演技は、海外でも多くの賞を受賞した映画「おかえり」によって再確認されたことは、記憶に新しい。
 しかし、この本は、自伝的小説ではあっても、自伝では無いというところがミソ。序文に「この物語は自伝です。だが虚構もあり、実在しない人も出てきます。この物語は小説です。だが真実もあります。実名の人も登場します。嘘も事実も曖昧模糊となっています。いわば、虚と実との皮膜の物語です。つまるところ、人の人生は虚実の積み重ね。その虚と実の狭間に、私の空虚と充実を書きすすめてみました。」とあるように、全ては虚実皮膜。本人が語っていようと、それはフィクションなのである。間違えてはいけないのは、フィクションだから真実が無いわけではなく、ノンフィクションだから真実とは限らないということ。青木富夫さんは、その子役時代から、芝居と真実の境で生きていたわけで、そういう考えが身にしみているのだ。こんな当たり前のこ
とを、わざわざ序文で断らなければならないほど、世間には、そういう勘違いが満ち溢れているということも、よく知っておられるのだろう。
 撮影所で遊んでいたら子役と間違われて、
いきなり小津映画に出演することになる彼。いきなり、人気者になり、数多くの映画に引っ張りだこになる彼。松竹の傾きから旅芝居の一座を旗揚げし、地方巡業に出る彼。戦争が始まり、客を楽しませると憲兵に怒られるという不思議な事態に直面する彼。初めて惚れた芸伎との別れに涙する彼。高峰秀子と二人で歩く夜の空に輝く星。そんな、悲しいシーン、楽しいシーン、泣かせるシーンが満載の物語に、本当か嘘かなんて、どれくらいの意味があると言うのだろう。そこにあるのは、青木富夫という作者の心情なのだ。そのことだけは間違いない。まるで、シナリオのように書かれた不思議な文章から、かつてのキネマ王国の姿が、戦時中の役者の姿が、仲間の気持ちが、スクリーンに映し出されるように展開する。その描写にはリアリティは無い。けれども、リアルな心情は伝わってくる。
 ホームページやメーリングリストなどで吐き出されるテキストは、それが個人のフィルタを経ている以上、絶対にフィクションにしかならない。ならば嘘であることが、何故問題になるのか。要は心意気だ。この面白さの前に、事実はたいした問題ではない。