歌舞伎のサイコ


 歌舞伎は、幕府からの締め付けによって、勧善懲悪でなければならなかったり、悪人は最後まで悪人、善人は最後まで善人(「もどり」という例外はあるが)で通さなければならなかったりと、そのドラマツルギーにおいて、大幅な制約を受けていた。そのため、一人の人間のなかにある悪の部分と善の部分の葛藤や、善悪の基準が曖昧な相対的なドラマなどは作れないようになっていたのである。その制約の上でドラマに変化を付け、面白いものをつくるために、大悪人を名代の役者に演じさせ、最後にはちゃんと成敗されることにした上で、猟奇的な殺人を美しく見せたり、狂気の名目で、大量殺人を正当化したりと、様々な工夫を凝らしている。ストーリー全体が勧善懲悪でさえあれば、途中、どのようなことが起こってもよいという構造の芝居も多く、デカダンの世相もあってか、猟奇的な話やオカルトまがいの話も量産された。その中には、現在言うところのサイコホラー的なものや、狂気の果ての美しさなどを見せることを目的にした芝居もあり、その面白さという点では、現在のサイコ的な作品にひけをとらない作品もある。勧善懲悪の制約を逃れるのに、狂気というのは便利な隠れ蓑だったのかも知れない。そういう歌舞伎の中のサイコをいくつか並べてみようと思う。
「東海道四谷怪談」(とうかいどうよつやかいだん・1825年初演)で有名な、四世鶴屋南北は、その突出した奇想で数々の奇怪な作品を残している。その彼の作による「絵本合法衢」(えほんがっぽうがつじ・1810年初演)は、軽いフットワークで次々と善人を殺す悪玉の魅力と殺しの手際を見せることを主眼とした残虐劇である。筋を紹介しているとこの本一冊くらいになってしまうほど複雑怪奇な入り組んだ物なので割愛するが、この芝居の主役であり悪玉の、立場の太平次(たてばのたへいじ)
が凄い。とにかく、気楽に人を殺していく。それが妻だろうと情婦だろうと、殺すほどの理由がなくても、ホイホイと殺していくのである。心理という概念が無い時代とはいえ、これはサイコキラーと呼んでもよいのではないだろうか。同じ芝居に出てくる、うんざりお松が、その役柄としての魅力(CCガールズの青田典子の雰囲気かな)は別にして、悪女としては常識的な枠に収まっているのを見ても、立場の太平次の異常さは際だっている。ライト感覚の殺しを当代の人気役者がたっぷり見せる趣向は、悪の美学というより、異常者の所業というほうが似合っている。歌舞伎の中でもかなり異色の芝居である。
 よくある狂気のパターンとしては、内田吐夢監督で映画にもなった「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ・1888年初演・三世河竹新七)がある。俗に言う吉原百人切りである。醜い容貌の朴訥で純情な男が、惚れた遊女に衆人の中で恥を受け裏切られた恨みと、妖刀籠釣瓶の魔力で気がふれて、その遊女はもとより、吉原中の人間を斬って斬って斬りまくる。狂気に冒された醜い男が、華やかな遊廓を不気味に徘徊し惨殺を繰り返すシーンが、何度も執拗に演じられる。同じ様な話が「伊勢音頭恋寝刃」(いせおんどこいのねたば・1796年初演・近松徳三)にも見られるが、こちらは、美男が演じ、殺し場の凄惨な美しさを見せることを眼目としている。籠釣瓶の方が、明治に作られたせいもあってか、より狂気を前面に出した演出になっているようだ。
 籠釣瓶の女性版で、より陰惨な話の「菊月千種の夕暎」(きくづきちぐさのあかねぞめ・1829年初演)というのもある。これは四世鶴屋南北の作と伝えられるだけあって、主人公の女が、裏切った男の祝言の席に短刀一本で斬り込むにいたる過程を、気分が悪くなるほど丁寧に描いて、その狂気に説得力を与えている。
 サイコホラーというか、映画「恐怖のメロディ」や「危険な情事」のようなパターンの歌舞伎もある。有名な所では、舞踊「京鹿子娘道成寺」(きょうがのこむすめどうじょうじ・1753年初演・藤本斗文作詞)に代表される道成寺ものは、どれも惚れた男に対する女の執念を描いている。男をどこまでも追っていき破滅させようとするストーリーは、様々に形を変えて何度も上演されている。その中でも異色なのが、男を追って狂い、その執念が蛇となった女と、女を追って狂い、鬼となった男が合体して蛇鬼となる、「金幣猿嶋郡」(きんのざいさるしまだいり・1829年初演・四世鶴屋南北)であろう。ただ、ここまで来るともはやサイコものというより伝奇ものなのだけれど、その奇想と、蛇や鬼になるという形での狂気の表現は、舞台で見るとかなりのインパクトを受ける。現在見られるような、狂気がじわじわと迫り来る恐怖とは違い、素朴な狂気ではあるが。
 猟奇的な狂気では、これもやはり南北の作による「盟三五大切」(かみかけてさんごたいせつ・1825年初演)がある。ここに出てくる、薩摩源五兵衛は、悪女にだまされ窮地に立たされながら、なおその女を愛し、惨殺した後、その首を持ち帰り、やさしく話しかけ、食事を共にする。現代にも通じる形で異常心理を描いた珍しい芝居の一つであろう。この芝居は初演当時、あまりの陰惨さに客が入らず、近年になってようやく注目されたという。この芝居も、「東海道四谷怪談」などと同じように、忠臣蔵の外伝の形になっている。凄いことに、猟奇殺人の薩摩源五兵衛は実は四十七士の一人として討入にいくのである。
 大正時代に発表された、谷崎潤一郎によるいくつかの作品は、歌舞伎の中でも異彩を放ちつつ、異常な世界を描き出す。生真面目な男が、女に振り回されながら殺人を繰り返す「お艶殺し」(一九一五年・久保田万太郎脚色)や、「お國と五平」(一九二二年)などは、現在でも人気のある演目である。
 その中でも、「恐怖時代」(一九一六年中央公論に発表、発禁となり、削除・改作の後、一九二一年初演)は、その登場人物のほとんどが殺人鬼であり、奸知に長け、残虐な殺人を繰り返し、それ故の異常で美しい世界を構築する。惨たらしい死体を放置したまま、尚も暗殺の謀略を張り巡らせる美しい側妾。残虐な処刑を趣味にする主君。屈強の忠義の侍を斬り、愛人を斬り、主君をも斬り殺す眉目秀麗の小姓。まさに、サイコキラー同士による殺し合い、殺人合戦である。
また、大正時代になって、ようやく明確に心理を取り入れた歌舞伎も現れる。「生きてゐる小平次」(いきているこへいじ・1925年初演・鈴木泉三郎)がそれである。これは中川信夫監督が映画化しているので、ご存じの方も多いと思う。殺したはずの男がまだ生きているのではないかという不安と恐怖を、幽霊話としてではなく、殺した側の神経症的な恐怖として描いている。不倫の果ての殺人、そして、殺した男の影に怯えながら崩壊していく男女、というストーリーは充分に現在のサイコミステリの体裁を整えている。しかし、その後この分野の発展はあまり見られない。
 こうやって挙げていくだけでも、歌舞伎には異常な話が多いと、今更ながらに感心してしまう。当然、精神分析的なテーマは見られないのだけれど、これはこれで充分にサイコなのではないだろうか。いわば、ジャパニーズ・トラディショナル・サイコである。