男の美学について


1.何故、僕は「男の美学」が嫌いなんだろう

 ずーっと前から、もう、子供の頃から、僕は「男の美学」的なものが嫌いだった。もちろん、そういう言葉を意識していたわけではない。ただ、例えば、江戸川乱歩の「少年探偵団」シリーズは愛読してたけど、「怪盗ルパン」シリーズは、どうも好きになれなかった。あんなに正義の活躍をしといて、それでも怪盗と名乗るイヤミったらしさが嫌いだった。甘んじて、正義を引き受ける勇気の方が、僕は今でも好きだ。そうでなければ、徹底的に悪い奴とかね。また、チャンドラーは読んではいたけど、ハードボイルドのファンと話が合うことは、まず無かった。そもそも、有名な「男はタフでなければ生きてはいけない。優しくなければ生きていく資格がない。」というセリフは、あくまでフィリップ・マーロウの自嘲の中から出てきたものであるはずなのに、それを真に受けてかっこいいと思っている奴が多いのに呆れたし、バーボンは何々しか飲まないとか言うし、つまんないケンカ自慢ばっかり喋るし(そもそも、多人数相手にケンカする方がバカでしょ。そうやってケンカ自慢しといて「俺は売られたケンカしかやらない」とか言うしね)、室内でもサングラスしてるし、無口だし(というウリで、女の子に何か聞かれたら、急に饒舌になるし)、セブンスターは吸わないし、チャンバラ映画とか見ないし、本格ミステリ嫌いだし、ヘンに義理堅いし、友達というだけで、一方的にそいつの味方をするし、冷たくしてもついてくるような女を彼女にしてるし、ちょっとキツイ突っ込み入れるとマジで怒るし、「あんたには言っても分からない」というセリフをすぐ吐くし、飲み屋での友人関係が好きだし、酒には強くても、すぐ自分に酔うしで、これが、本当に始末が悪い。で、何で、そういうのが嫌いなんだろう、と思ったら、これが「美学」という考え方だったというわけで、また、「男の美学」が嫌いになるわけだ。
 さらに、冒険小説や、ハードボイルドに登場する女性が、死ぬほどバカに描かれているのも、私の嫌いに拍車をかける。真保裕一の「ホワイトアウト」のヒロインなんか、その典型。可愛くて、でも芯が強くて、男の無謀を理解してくれて、でもか弱い、というようなキャラクターということになってるんだけど、それが一方的に男の美学の中から導かれただけのような存在。憧れるならいい。そういう女がいたらなあ、というのもいい。それは勝手にやってくれ、と思う。でも、芯の強い女性って、本当に強いぜ。とも思う。だから腹が立つ。その、男に都合のいい強さを、平気で描写できる神経と、そのキャラクターに惚れることが出来る神経に。
 「それは、生きるためのスタイルだ」と言う人がいる。僕も、スタイルを持つ、というのは、それほど嫌いではない。でも、そういうスタイルは、あくまでも個人的なものでしょ。だから、それは単に、自分が事に応じて、どのような反応をするか、という部分であって、そういうのをひけらかす必要はない。自分のスタイルに殉じる事で起こる悲劇と、それを受け入れる主人公、といった物語なら、僕も大好きだ。キングの「デッドゾーン」とか、「ヒッチャー」とか、「摩莉と新吾」なんかね。で、人に見せるためのスタイルは、ファッションで充分。そういう物語も好きだ。いしかわじゅんの「うえぽん」とか、川崎ゆきおの「猟奇王」とか、青池保子の「エロイカより愛を込めて」とかね。だから「男の美学」を単にファッションとして纏っているのなら、まあ、「ヘンな奴」で済むのである。ところが、そうはいかない場合が多くて困る。なりきってたりしてね。そうなると、個人のスタイルを越えて、こっちにまで迷惑がやってくるのだ。
 大体、「男の美学」が好きな奴って、喋らないわりに、能書きが好きで、でも、理屈で負けそうになると、「そんな理屈では何も生まれない」とか言い出して、わけわかんない。「美学」を、単に思考停止の言い訳に使ってるとしか思えない。それに、美学で武装して、どんなにカッコつけててもセックスはするのである。尻をポコポコ動かすのである。あれは、美学上問題ないのであろうか。
 うーん、私が何故「男の美学」が嫌いかは、こういう理由なんだな、と、自分でも納得出来るのだけど、でも、そういう「男の美学」は、何故「男の」なのかは、未だ謎である。

2.男の美学は、何故「男の」なのだろう

 美学、というのは学問だ。美についての学問のことで、その言葉に問題はない。赤瀬川原平の「美学校」というのもある。でも、「それは俺の美学に反する」なんてセリフ(今時言う奴がいるのか、とお思いでしょうが、これが結構いるのである)に出てくる「美学」は、学問としての美学とは明らかに違う。だって、だったら「美学」に「反する」なんてことはないから。もしあるとすれば、「それは美学上、美しくないものに分類される」というようなことだろうけど、その場合、決して、「俺の」なんて言葉はくっつかない。おれが研究している理論上、というなら、まあ、ありだけど、そういう文脈で発せられた言葉ではないことは明らかだしね。
 それにさらに、「男の」がくっつくのだから、更に意味は分からない。しかも、「女の美学」という言葉は、あんまり聞かないのだから、わざわざ「男の」と付ける必要も、よく分からない。ましてや「犬の美学」とか、「鮒の美学」とか、そういうのも聞いたことはないのだから、「男の美学」というのは、多分、「男の美学」で、一単語を成す言葉なのだろうと推測できる。つまり、「美学」という言葉とは無関係の「男の美学」という別の言葉。もしかすると、「アニメファン」というと、あまり良い印象が持たれないのに、「宮崎アニメファン」と言えば、世間的に通用するというのと同じなのかも(違うよ)。
 さらに不思議なのは、「男の美学」を唱える人それぞれに、別の「男の美学」があるということ。「男のロマン」という類義語もあること。そして、それぞれに美学は違うくせに、みょうに「男の美学」についての話になると、言ってることに違いが出ないこと、の三点だ。まあ、実は不思議でも何でもなくて、答えは出ているのだけど、一応、「ねえ、何で?」と聞いてみたくなるのが、男の美学を解さない、精神がオカマと差別され続けた僕の意地の悪いところではあるし、そういう腹芸的な世界が嫌いだから、男の美学も判らないのではあるけれどね。
 で、答えは、要するに、男である自分への陶酔ということでしょ。と思う。だから、いちいち「男の」がくっつく。その背景は、「男である」ということでしか、自分を見出せない精神の貧しさ。男の美学を云々する奴のほとんどが貧乏なのは、そういうことだ。夢を見るのにも「男のロマン」なんて、男をくっつけてしまうという貧しさは、これは、かなりピンチなんじゃないの?

コラム「男の美学の分布」

 通常、「男の美学」は、高倉健とルパン三世と内藤陳の周辺に転がっているらしいことは、調査の結果判っている。でも、多分、高倉健は「美学」という言葉は口にしない。彼の場合は「節度」であり「礼節」だろう。ルパン三世にしても、原作のマンガでは、「美学」なんてことを考えているようには見えない。必要があれば、人だって殺すし、ちゃんと悪い奴だ。内藤陳の場合は、「男の美学」的物語が好きな人、ということで、もしかすると、問題はこのあたりにあるのかも知れないけど、よく判らない。ただ、演歌的精神を外国の小説でごまかそうという人が、彼の周りには結構いるような気はする。

3.桐野夏生「OUT」について

 そういう現実を背景にして、女性による、ハードボイルドの傑作が登場する。もともと、ハードボイルドって、男の一人称小説の探偵小説で謎解きがないやつ、という理解をしていた僕だけど、そのスピリットだけを抽出して、そこから「ロマン」とか「美学」とかを全部取り払って、ただひたすら荒んでいく「OUT」を読んでいると、これが、「ハードボイルド」という言葉に僕が求めていたスタイルなのかも知れない、と思った。美学のない、そして荒涼とした雰囲気と、荒んだ日常のリアルな描写から生まれる、強烈なフィクション。多分、この小説はハードボイルドではないのだろうし(何せ三人称で書かれているしね)、ロマンのカケラもない。でも、この面白さ、疾走感は、そのへんのハードボイルド小説を、ただのふにゃけた呑気な男の駄話にしてしまうだけのパワーを持っている。
 一人の主婦が、うっかり亭主を殺してしまった同僚の頼みで、死体の始末を引き受けることから始まる殺し合い。メインに登場する四人の女性は、誰も特殊な人たちではなく、見栄っ張りの浪費家のデブとか、世話焼きのオバハンとか、良妻賢母の鑑とか、キャリア指向の主婦だったりして、それぞれが、それぞれの思惑の元に勝手に動き、勝手に殺されたり、殺したりする。相手は、悦楽殺人嗜好の元ヤクザ。この男の、行き過ぎた「男のロマン」に対してのアンチテーゼとして、描かれる最後の対決から、何の救いもない寒々しいラストシーンまで、物語は、その悲惨さを加速していく。
 美学の果ての身勝手と、生活の果ての身勝手が闘うという前代未聞のアクション。仲間も、友達も、家族も、全部、いざとなれば何の助けにもならない、という事実を描き出した上で、なお、すがすがしい物語。多分、現代は、普通にこのくらい荒涼としている。その中で、まだ「男の美学」をほざくバカがいるのか、と思うと、そっちの方が寒いぞ。